日本酒の神様「農口尚彦」杜氏の酒造りに酔いしれる
日本酒を極め続けてきた「能登杜氏(とうじ)」農口(のぐち)尚彦が造る酒。それは、名だたる高級料理店をはじめ、最近では海外からの人気も高い、石川県の銘酒です。米の旨みが口の中で膨らみ、さっぱりとキレのいい喉越しが特徴で、80余年の人生を捧げて極め続けてきたからこそできる珠玉の逸品。2017年、石川県小松市に完成した合理的で先駆的な酒蔵「農口尚彦研究所」が発信する、濃醇な酒の魅力と新たな日本酒の世界観をご紹介します。
杜氏一家の三代目。農口尚彦杜氏とは
笑うと目尻にシワがよる柔和な表情でスッと伸びた背筋、身長は小柄ながら大きな手のひら。作業服が似合う農口杜氏は1932年(昭和7年)生まれ、取材時の年齢は86歳。その年齢を感じさせない、ふとした時に見せる鋭い眼光も印象的です。
生まれは能登半島の珠洲郡(すずぐん、現・能登町)。父も祖父も杜氏という杜氏一家に育ちました。「子どもの頃は海ばかり見ていました(笑)」という農口杜氏は、16歳で静岡県や三重県の酒造へ見習いとして蔵入り。作業は非常に厳しく、米1俵(60kg)を担げないようでは酒造りの役には立たないと言われたそうです。「当時は終戦直後で、たった2つ年上の人が出征したまま帰って来なかった。それを思ったらどんなことでもやらなきゃならん、と酒造りに打ち込み、麹(こうじ)造りなどの猛勉強をしたのです」
28歳で石川県に帰り、その後は酒造「菊姫」や「鹿野(かの)酒造」で通算50年に及ぶ杜氏生活を送ります。「全国新酒鑑評会」では金賞連続12回、通算27回という華々しい受賞歴。その間、他の酒造が鑑評会のためだけに造っていた吟醸酒を市場に送り出して「吟醸酒ブーム」を生み、その名を全国にとどろかせました。2006年には厚生労働省認定「現代の名工」に輝き、2008年には黄綬褒章(おうじゅほうしょう)も受章、「日本酒の神様」とも称される存在となったのです。
日本屈指の技術で名高い「能登杜氏」と「能登流」の酒造り
約2千年前から培われてきた日本独自の酒造りは、世界でも比類なきほどに複雑で繊細な発酵技術の賜物。その日本酒を作る職人集団の最高責任者が「杜氏」であり、杜氏の経験と勘で酒の出来が決まると言われるほどの重責です。日本各地の杜氏集団の中でも「能登杜氏」は、岩手県の「南部」、新潟県の「越後」、兵庫県の「但馬」と共に「日本四大杜氏」に数えられ、その高い技術は今も脈々と受け継がれています。
江戸時代から能登の酒造り集団は「能登衆」と呼ばれ、能登杜氏を先頭に蔵人たちが一丸となって「能登流」とされる独自の技術を育んできました。「能登流の酒は濃くて米の味のする酒。特に昔は1日の厳しい労働を終えた晩酌で飲むことが多かったから、水っぽいと嫌われる。濃い味が求められたのです」と農口杜氏。そんな「能登流」を継ぐ中でも傑出した四杜氏がいつからか「能登杜氏四天王」と呼ばれるようになり、農口氏もその一人として名を連ねています。
時代に合わせて進化する、農口杜氏の造る酒
酒造りに生涯を捧げてきた農口杜氏ですが、実はお酒を飲まないというから驚きです。酒蔵に来る客や試飲イベントに来た人などの反応を見ることが、次の酒造りの大きな参考となっているそうです。前出の「能登流の濃い酒」も、快適な環境で働く現代は少しずつニーズが変わり「米の旨みは感じつつ喉を通るとサーッとキレる酒」が今は求められていると言います。「旨みを出そうとすると重くなる。キレを良くすると薄くて辛くなる。バランスが難しいんですよ」と苦笑い。それでも嗜好(しこう)の変化をいち早く感じ取り、時代を先取りした酒を造ることこそ、農口杜氏の生きがいなのだそうです。
そんな揺るぎない名工の技術と、時代を敏感に取り込むセンスが融合した、「農口尚彦」の酒をご紹介します。
〈大吟醸〉
1970年代の吟醸酒ブームを巻き起こした農口杜氏が醸す、渾身(こんしん)の大吟醸。清涼感ある酸味をわずかに感じる濃醇な一本です。品の良い奥深い香りで余韻は短め。ギフトにしても喜ばれる特別感のあるお酒です。
〈山廃仕込みシリーズ〉
農口杜氏の代名詞とも言われる山廃仕込み。山廃とは「山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)」の略で、米を櫂棒(かいぼう)で磨りつぶす「山卸」という作業を廃止して仕込んだ酛(もと=もろみを発酵させる元になるもの)のこと。これにより造られた酒が「山廃仕込み」と呼ばれています。手間も時間もかかるので一時期全国的に衰退しましたが、農口杜氏の手により見事に復活。その農口杜氏本人が造り出す、米の旨みを最大限に引き出した芯の強い味わいとほのかな酸味が絶妙なバランスのシリーズです。「さっぱりしていて肉料理とも相性抜群。最近は若い女性で好まれる方も多いようです」
〈本醸造酒〉
「初めての方におすすめしているのが本醸造。テイスティングで評判がいいのもこれです」と農口杜氏。冷酒、ぬる燗と、温度により味わいが全く変わるおもしろみのある酒。キレが良く、もうひと口、もうひと口、とつい飲みたくなります。
〈純米酒〉
酒蔵周辺の農家が栽培した酒米を100%使用。米そのものの味わいが染み渡り、フローラルな香りが満ちあふれます。
「農口尚彦研究所」完成初年度の2017年に造った中から、最高のロットを選りすぐり、熟成管理を行った限定シリーズ。有名美術家がデザインした、アシンメトリーなオリジナルボトル入りです。
自然豊かな田園の中に立つ、最先端の酒蔵「農口尚彦研究所」
後進へ技術と酒造り精神を伝える目的で設立した「農口尚彦研究所」。小松空港から車で約30分、山あいの田園が広がる緑豊かな場所にあります。寒い季節に酒を仕込む「寒造り」には、雪が降って5℃以下になる気候がいいとされ、澄んだ空気も大切。研究所隣にある深さ約90mの井戸からは白山の清らかな伏流水を汲み上げることができ、酒造りに理想的な場所としてこの地が選ばれました。
モダンな印象の入り口の先が販売スペース(購入はクレジットカードのみ対応)。「手に触れるところはできるだけ木を取り入れたい」という農口杜氏の希望を反映し、ゲスト用のテーブルには大きな一枚板を使い、壁も木製で仕上げてあります。壁際に並ぶ商品を見ながら、落ち着いて好みの1本を選べるスペースです。
入り口を一度出て建物脇にある階段を上がると、酒蔵内部がガラス越しに見られるギャラリーがあります。酒蔵の中は、働く蔵人を見守るように壁全体に農口杜氏の大きな写真がデザインされているのが特徴的。ギャラリーには農口杜氏の略歴や愛用の品なども展示されています(ギャラリースペースは「杜庵」での日本酒体験「酒事」の予約者のみ入場可能)。
この酒蔵を訪れた多くの人が、従来の「酒蔵」のイメージとは異なる建物に驚くはずです。伝統を重んじる杜氏という職にありながら、実はとても合理的で効率を優先するのが農口流。酒造りの記録を40年余りに渡って取り続け、科学的に探究してきました。人の感覚に頼ることを最小限にし、できることは機械化する。そんな先進的な農口杜氏の哲学を形にしたのが、この最新設備を備えた研究所なのです。
建物の最奥にあるのが、静寂に包まれたテイスティングルーム「杜庵(とうあん)」。酒器や酒の温度の違い、地元産食材との組み合わせなどによる新しい日本酒の楽しみ方が体験できます。九谷焼人間国宝と美術家のディレクションによる伝統美が息づく凛とした空間は、国内はもちろん海外からのゲストも魅了します。
コの字型になったカウンターは、茶室風空間をイメージした4畳半の大きさ。1日1回開催される日本酒体験「酒事」では、蔵人がその時期におすすめする数種類の酒の利き酒ができます。九谷焼、陶器、グラスなど器によって味が変わって感じられるのもおもしろい体験。地元産の発酵食をアレンジした酒のさかななどを楽しみながら、酒と食の新しい発見ができるプレミアムな時間が過ごせます。
研究所では若き蔵人たちが酒造りに没頭できるよう、宿舎や仮眠施設も整備。「酒造りは夢造り。しっかりと夢を持って仕事をしてほしい。それが一番大事だと思っています。将来は自分らしい酒造りができるように育ってくれたら嬉しいですね」。
高度な技術だけでなく、農口杜氏のこうした精神や生き様までもが、志のある若者へと継承され、未来の「能登杜氏」が育まれています。
「杜庵」の窓の外いっぱいに広がる、きらめく水田を眺めながら農口杜氏は最後に語ってくれました。「舌の上では旨くて、喉を通るとスカッと爽やかになくなる。あれ?どこにいったかな?と、また飲みたくなる(笑)。そんな酒を造っていきたいですね」。
- 農口(のぐち)尚彦研究所
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- https://noguchi-naohiko.co.jp/
- 石川県小松市観音下町ワ1-1 MAP
- JR小松駅から車で約30分
- JR小松駅から小松バス尾小屋行き乗車約40分、「観音下」下車すぐ
- 9:00~16:00
- 年末年始、お盆 (杜庵は水・木曜日)
- 無料
- 酒事:1日1回14:15~15:45開催。12名定員。完全予約制(HPから会員登録必要)