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- 軽井沢 現代を休む「脱デジタル」の旅
- REPORT.01 発見された避暑地、軽井沢 その原点にあるショー師の精神
- REPORT.02 軽井沢の誇りを感じるスローガン "娯楽を人に求めずして自然に求めよ"
- REPORT.03 星のやの「脱デジタル滞在」で 私自身のバランスを取りもどす
発見された避暑地、軽井沢
その原点にあるショー師の精神
あっつい暑い……
夏だから仕方ないとはわかっていても、つい何度も弱音をこぼしてしまうほど酷暑がつづいている。日本で生まれ育った者ですらこれほど辛いのだから、明治時代に初めて来日した欧米人にすれば、この高温多湿の気候は耐え難いものだっただろう。彼らにとって極東の地で健康的に夏を過ごすことは、おそらく、私たちが思う以上に切迫した問題だったにちがいない。当時の多くの外国人は、だから、高原をめざした。この夏、私が東京から逃れて向かった軽井沢を「避暑地として」発見したのも、2人の外国人だった。
明治6年(1886)春、カナダ出身の英国国教会の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーと文科大学(後の東京大学)教授のジェームス・メイン・ディクソンは、旅の途中に立ち寄った軽井沢の気候と風景を気に入り、早速その年の夏、家族をともなって避暑生活をおくった。ショーはこの滞在で、軽井沢の風土が避暑地として最適と判断。日本在留の欧米人に軽井沢の美点を紹介し、翌年になると大塚山に別荘を建てた。軽井沢の別荘第1号となったこの建物は現在、復元されて「ショーハウス記念館」となっている。今回初めて足を運んでみたのだが、その外観は日本伝統の下見板張りの民家風ながら、内部の間取りは1階も2階も西洋風だった。
ショーは別荘を拠点に布教活動をする一方、地元の子どもたちに水泳を教えるなど住民たちと積極的に交流をはかり、製氷法やパンの焼き方なども紹介したらしい。また、東京に戻れば、軽井沢を「屋根のない病院」と呼び、冷涼で澄んだ空気や緑豊かな森の素晴らしさを多くの知人に語って聞かせた。
「ショーハウス記念館」を見学した私は、敷地の入口付近にある「ショー氏記念碑」に近づき、そこに刻まれた文字を読んだ。
賑やかな旧軽沢銀座の一番奥にある日本聖公会ショー記念礼拝堂。その奥に復元されたショーハウス記念館がある。右は、旧軽井沢の森に囲まれた諏訪神社境内にある道祖神。外国人が避暑地として開発する前は中山道の静かな宿場町だった
〈尊敬する大執事A・C・ショー氏を記念して。師は夏の居住者として初めて村民と共に暮らし、彼らの永年の誠実な友人であった。軽井沢の村民がこの石碑を建てた〉
碑はショーが亡くなった6年後、明治41年(1908)に建てられた。この頃には外国人だけでなく日本の要人も別荘を建てるようになり、開業した万平ホテル、軽井沢ホテル、三笠ホテルには多くの宿泊客が訪れるようになっていた。村にはテニスコートやスケート場も造られた。
ショーたちが発見するまで旧中山道の寂れた宿場町でしかなかった軽井沢は、明治という新時代になって劇的に変容した。外国人によって自分たちの風土の魅力を自覚し、活用する術を学んだ軽井沢。高原野菜(キャベツ、白菜)の栽培法を教えてくれたのも彼らだった。100年前の住民は亡きショーを「師」とまで仰ぎ、その後も彼が遺した精神「自然の中での素朴な生活」を大切に守って国際的な避暑地へと発展していく。