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竹富島の種子取祭が行われるのは、毎年、新暦の10月・11月に巡ってくる甲申から壬辰までの9日間と決まっている。私が島を訪ねた11月19日は戊丑の日で、各家で種子が蒔かれる戊子の日はすでに過ぎていたが、もっとも祭らしくにぎわうと資料にあった奉納芸能の初日を翌日にひかえていた。竹富島ゆがふ館とまちなみ館の見学を終えた私は宿泊する「星のや 竹富島」にもどり、”琉球ヌーヴェル”料理を堪能して早めに床につき、そして、星が輝く暗いうちに目を覚ました。
「星のや 竹富島」から眺める十六夜の月。
中洲シェフによる美しい海老の前菜。
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夜明け前、ミルクウクシの様子。
世持御獄の神司たち。
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20日(庚寅の日)朝6時、種子取祭が行われる世持御嶽では神司の祈願がはじまった。それと並行して、御嶽のすぐ東側にある弥勒奉安殿の前では羽織袴姿の古老たちが3列になって正座。ミルクウクシ(弥勒起こし)の儀式が行われ、奉安殿の扉が開くと、ほのかな明かりの中に弥勒の面が浮きあがって見える。海の彼方の楽土から世(豊作・富)を運んでくる弥勒の顔は、五穀豊穣の神にふさわしくふくよかで、大きな耳と笑みをたたえた柔和な表情が見る者を和ませる。
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6時半を過ぎ、ようやく夜が明けはじめたころに神司の祈願が終わると、世持御嶽に特設された舞台に古老や公民館長らが移り、歓待の儀式となった。
舞台の縁に等間隔で座った彼らは、目には見えない神を迎えるべくふるまわれた御酒を飲み、それからニンニクとタコの和え物を食していった。私はここで世持御嶽を離れ、かつての玻座間村から仲筋村に通じる道の脇へと移動した。
島は静かだった。遠くから石垣牛とカラスの鳴き声が聞こえる他は凪のような静寂につつまれていたが、8時が近づくにつれ、世持御嶽の方から歌声と太鼓やドラの音がじわじわと迫ってきた。掃き清められた白い道をゆっくりと進んでくる集団の先頭には、神司の姿があった。その後ろには歓待の儀を終えた島の古老や役職者がつづき、それぞれが手に持った太鼓やドラを鳴らしながらユークイ(世乞い)の歌を唄っている。仲筋地区にある祭の主事宅へ「参詣」するその一団が自分の前を通過する間、誰に指示されたわけでもないのに、私は思わず両手をあわせてしまった。そこにふくよかな五穀豊穣の神がいて、古老らにまぎれてともに神司の後を歩いているように感じたのかもしれない。 -
私の前を去っていった集団は9時半過ぎ、参詣を終えて世持御嶽にもどってきた。神司に導かれた集団の後には、これから芸能を披露する住民たちが色鮮やかな衣裳を着てつづき、琉球三味線が奏でるリズムにあわせて手を叩きながら紅白の杭の間を進んでくる。
杭の内側にある広場はすでに数百人の見物客に囲まれ、その輪に沿うように集団はゆっくり踊り、巡る。雲が流れた空から強い日射しが降りそそぎ、祝祭の熱気が一気に高まっていく。
見物客の輪の中を周回した神司はわずかに内へ入り、後もそれにしたがう。そしてまた一周すると、神司はさらに内へと進む。内へ、内へ、内へ。いつしか集団の列は広場の中心へと渦を巻き、ヒイヤーヒイヤー、ヒイヤーヒイヤー、ソーレソレソレソレソレソレといった声があたりに響きわたる。この日迎えた神をみんなで囲んでいるうちに、島の人々が大きな龍になっていく……私は日射しに目を細めつつ何度も息をのんで広場を見つめ、そんな錯覚にしばし囚われた。
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十時からはじまった「庭の芸能」は、男女問わず、島人たちの生命力や勇敢さを感じさせる演目が多かった。貧しい百姓ながら重税に負けずに10人の子どもを育てあげ、毎年の年貢も完納した夫婦を讃える踊り、ジュチュ。食料不足のため竹富島から西表島の荒れ地へ移住し、艱難辛苦を味わいながらも前向きに開墾に勤しんだ真栄を讃えるマサカイなどは、その特徴をよく表現している。
そして、頭にマンサージ(紫頭巾)、足に脚半と草履、腹に馬型をくくりつけた男性が隊列を組んで踊るンーマヌシャ(馬乗者)で「庭の芸能」がすべて終わると、今度は特設の舞台で玻座間村の「舞台の芸能」が奉納される。こちらは優美さと格式を重んじた芸能を基本としているが、途中に現代喜劇をはさんで観客があきないよう工夫されている。
これらの奉納芸能がすべて終わったのは、18時半だった。島の老若男女だけでなく、島を離れた人々まで参加した各演目の仕上がりは見事で、なぜこの種子取祭が9日間もあるのか、私はようやく理解した。祭がはじまる甲申は、つまり奉納芸能の練習開始の日なのだった。芸能の練習がすでに祭となるのが、竹富島の種子取祭なのだ。 -
どうしてここまで熱心に取り組むのか? 私は熱演がつづく芸能を見学しながら自問し、こう考えた。これは成功体験の通過儀礼だと。
人は過去の成功体験に引きずられる。困難な局面を迎えたとき、それは過去からの激励となる場合が多い。あの時の楽しさ、喜びを思い出してもう少し頑張ってみろ、と。
たとえば竹富島で生まれ育った人の場合、幼いとき、若いときからこの祭に参加したら、それは立派な成功体験になるのではないか。難しい芸能の練習に耐え、修得し、年を重ねるごとに力量をつけ、近隣だけでなく今や全国から集まってくる観光客の前でやりとげて拍手喝采をあびる……苦労も成功もひっくるめてこの9日間が記憶に刻まれ、その後の人生を支える成功体験と化していっても不思議はないだろう。
しかも、その芸能体験は島の記憶ともいえる歴史とつながっているから、たとえ島を離れたとしても、そこは自分がかつて輝いた土地、舞台として心に在りつづける。島の苦難の歴史と食物のありがたさを学びながら味わう、成功体験。神に奉納する芸能には、竹富島に生を受けた人々の「うつぐみの心」を継承する力もひそんでいるのだろう。