星のや軽井沢|滞在エッセイ・綿矢りさ
谷の呼吸
綿矢りさ

朝4時45分、季節は7月。空が朝焼けに染まる一瞬を合図に、軽井沢町星野の谷の集落は、オーケストラのような野鳥の声に一斉に包まれる。

夏の太陽は、いっそう木蔭を濃くする。木洩れ陽にうつむきがちに咲くホタルブクロやギボウシは、この季節の象徴的な花。

星のや軽井沢20年目の夏、山椒の実がたわわに生った。清流で丁寧に洗われ、ハチミツ漬けにされ、季節の滋味となる。

鶏の滋養スープ、クロモジの香りのインク、光を遮るメディテイションバス。日常にはない静かな刺激が、五感の奥に眠る豊かな知覚世界の扉を開く。

夕餉(ゆうげ)の時間のために、棚田を流れる川に一つ一つ行灯が浮かべられた。どこか懐かしく、幻想的な光景。

都会の喧騒は、身体じゅうに染みついて、そこから離れても、内側にすぐ静寂が訪れるとはかぎらない。むしろ一番うるさいのは頭のなかで、たとえ旅行に出かけたとしても、すぐすべてを忘れられるものではない。新幹線で東京を逃げ出しても、同じ速度で追いかけてきて、窓の外からニコッと笑いかけてくる。それほどしつこいのが、都会の喧騒であり、日ごろの悩みだ。

でもそんな疲れる煩さを、人から丁寧に祓う宿があるとすれば、どうだろうか。「星のや軽井沢」は旅人が日常の生活から旅先まで連れてきてしまった好ましくないものを、とり除く。ぬかるみを歩き疲れた靴の泥を、一粒残らずブラシで取り払うように、精神をうるさくしている目に見えないものを、時間をかけて、ゆっくりととり除く。

「星のや軽井沢」は、とても広いのに、自然のなかに身をひそめるがごとく、こっそり建っている。出迎えてくれた生演奏、そこで奏でられる音楽はメロディー重視でなく、呼応や揺らぎを聞くためのもの。それは自然のなかで聴く音と、とても似ている。

宿に入ると、垂らされた松かさのような形の照明には、一つの照明のなかに複雑に分かれた明暗の灯がともり、使い込んだ深い色合いの、どっしりした、頑健で朴訥な調度品が迎える。建物内は手すりでさえやわらかく波線をたどり、全体的に柔和な印象だが、家具や絵画などは、どっしりして力強い作品も多い。優しさだけでなく暖かみのある厳しさに囲まれる。この対照的な組み合わせが、自然に囲まれたこの土地で、異空間を作り出している。ここを訪れた人は、宿泊客でも旅人でもなく、「星のや軽井沢」という〝谷の集落〞の住人となる。

別の人間に生まれ変わるのを、私たちは恐れながらも憧れを抱いている。その戸惑いの垣根を、この谷では、初め低い位置からゆっくりと高い位置に上昇し、気づけば私たちは過去を忘れて、この谷の住人として、ひそやかな呼吸をくり返している。

呼吸。ゆっくり吸って、はくのは、自然の空気が美味しいからだけでなく、身体のリズムがゆったりしてきた証だ。呼吸は眠りに深い関係がある。

デトックスには狂おしいもどかしさが伴う。塩抜きされてるさいちゅうのあさりの苦しさとでもいおうか。窓の外に美しい棚田と山々の景色が広がっていても、ついスマホの世界のあわただしさに目がいってしまう。そんな自分に少しがっかりしながらも、あせらず、ゆっくり、この空気になじんでいこうと思う。

天井の窓から入ってくる、朝の光で目覚めた。午前四時半。いつの間にか、夜明けがこんなに早くなっている。大きな窓を開けると、目の前に広がる森のあちこちから、鳥の声。鳥の声を聞きながらコーヒーを飲む。森の向こうからすっかり顔を出して輝く朝日を見るころには、ゆったりした呼吸は髪の毛の先まで浸透して、まだ昨晩の心地よい眠けを引きずっている。

忙しさにかまけて、つい乱れていた食事の摂り方も、自然にゆるやかに、直されてゆくようだ。「日本料理 嘉助」で用意された淡い味の滋味深い食事を口に運ぶうち、ここを訪れる前に、刺激が強くて単純な、辛みや甘みを求めていたのは、舌ではなく、乱れた心だったのだと気づく。

シオジの木の下でぼんやりしながら、鳥の声やせせらぎを聞いていれば、五感が刺激ではなく、濃淡に敏感になってゆく。野鳥の森をぶらぶら歩く時に、ふと見上げて眺める、頭上の木の葉の緑の濃淡。日が落ちるにつれ、だんだんと色濃くなる山奥の闇。かつおの出汁のごく上品な、シナノユキマスという魚を使ったお椀の淡い味。

あり得た現実と、あり得ないと思っていた安らぎが、あいまいに混じり合ってゆく。

張りつめた気は、決して無駄ではない。現代人の私たちは、常日頃、限られた時間のなかで勝負をくり返している。しかし時は無常に過ぎても、体内に流れる時間の速さを、私たちは個人で自由に設定できる、はずだ。予定に追われていると、そんなこと不可能だと、思わず絶望するが、なぜだろう、この谷の空気を吸ううちに、それも可能だと希望が見えてきた。

特等席は、あなたのために用意しました!と仰々しく提供されるより、ふと自分で見つけられるぐらいの距離感が良い。館内や森をうろついている合間に、これが瞬間の特等席か。という、かけがえのないときを見つけたけれど、それが他の人と同じとはかぎらない。むしろ一人一人が自分だけの特等席を見つけられる、そのゆとりこそが、提供される様々なことのなかで、もっとも贅沢かもしれない。

私にとって「星のや軽井沢」での特等席は、メディテイションバスだった。光の部屋と、闇の部屋。天井高く、自然な明るさの光の湯から、ほぼ真っ暗闇の洞窟のような闇の部屋へ移動するとき、心を恐れが占めた。何も見えないまま、手探りで進み最暗がりの角に座ると、目に入る場所すべてが、ほんのり明るく見えた。

自分が一番暗いと、逆に周りは明るく、きれいに見えるんだ。ふしぎと、じめじめした陰気な気持ちは少しもわいてこなくて、暗いところからは明るいところがよく見えることが、単純明快に新しい発見でうれしかった。この感覚を、実生活の人生のためにも覚えておきたい。

きれいな景色、美味しい食べ物、静寂。確かに私はそんなものを求めて、ここを訪れた。ただメディテイションバスで、たっぷりした温かい湯にたゆたううちに、ふと気づいたのは、本当は内側からもみほぐしてほしかった、という欲望だ。

安らぎを求めてきたはずなのに、同時に内側を変える体験も求めていた、欲ばりな自分に気づく。瞑想をするうちに気づくのは、なにも悟りだけではない、己の欲と向き合うひとときにもなる。

この軽井沢の旅を経て、私は成長したいわけでも、特別な思い出が欲しいわけでもない。ただ、この場所で得た豊かな安らぎと、一瞬雲が晴れるような気づきを、少しでも日常へ持って帰れたらと思う。それは名残惜しく様々な谷での景色や、陰影の美しい宿のなか、芸術品のように拵えられた料理の数々を写真に収めたとて、持って帰れた、ことにはならない。

人は忘れてゆくものだ。ここを離れて元いた場所に戻れば、私はふたたび、せわしない呼吸をくり返すだろう。しかし、鳥の声とともに、こんなにも初々しい太陽が見られる場所があった、ということは、ずっと忘れずにいたい。

著者
綿矢りさ
わたやりさ◯1984年京都府生まれ。2001年『インストール』で文藝賞受賞。04年『蹴りたい背中』で芥川賞受賞。12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞受賞。25年8月に最新作『激しく煌めく短い命』(文藝春秋)を刊行。25年7月星のや軽井沢に滞在。
写真
森山雅智
初出 ハースト婦人画報社『婦人画報』2025年10月号
星のや軽井沢
389-0194 長野県北佐久郡軽井沢町星野
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