• 行ったら、やっぱり、面白かった!NIPPON再発見紀行 沖縄 竹富島 「種子取祭」
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長薗安浩

REPORT01 種子取祭の由来伝承は島の基本精神とつながっている 文・長薗安浩 写真・久間昌史

 2013年11月19日、私は種子取祭(たねとりさい)を見学するため、初めて竹富島を訪ねた。
 竹富島は石垣島から高速船に乗って約10分の沖合にある、周囲約9キロ、人口350人ほどの小さな島だ。上陸してしばらくすると、空を覆っていた薄い雲が流れ去った。私はすぐに散策に出かけた。
 サンゴ礁が隆起してできた島らしく、人々が暮らす土地は白いサンゴの砂の道で整然と区分され、道の両側には石積みの低い塀が並んでいた。その奥に立つ家々の赤瓦屋根には、晩秋にもかかわらず強い日射しが降りそそぐ。花が咲き、道端の木々のまわりを蝶が舞っている。目を細めて見上げた赤瓦には、愛嬌たっぷりのシーサーが置かれていた。
 国の重要無形民俗文化財に指定されている竹富島の種子取祭がいつはじまったかは、正確にはわからない。農作物の種子蒔きに関わる祭なだけに、島で農業がはじまった12世紀頃という説もあるが、沖縄本島で行われていたタントゥイ(種子取)が八重山の島々に伝わったとする説に()って、一般的には「600年の歴史を有する」といわれている。

 祭の由来伝承はこうだ。
 昔、竹富島には6つの村があり、それぞれに酋長がいた。玻座間(はざま)村の根原金殿(ねーれかんどぅ)仲筋(なかすじ)村の新志花重成(あらしはなかさなり)は作物の主導権をめぐって争ったが、根原金殿は粟作を、新志花重成は麦作を司ることで治まった。その後、新志花重成は根原金殿が行っていた戊子の日に種子を蒔くようになった。
 しかし、他の酋長たちは根原金殿のやり方に従わなかった。中でも、幸本村の幸本節瓦(こんとぅふしんがーら)己丑の日(つちのとうし)を強く主張した。そこで根原金殿は妹を幸本節瓦に嫁がせ、戊子(つちのえね)の日の効力を夫に伝えさせた。----たとえあなたが作る量と同じでも、兄の粟は、酒や料理ができあがったときに量が増える。また、戊子の日に種子を蒔いた作物は、己丑の日のそれとは違ってよく根づく---- 妻の話を聞いた幸本節瓦は種子蒔きの日取りを変えると決め、根原金殿を見習おうと、甲午(きのえうま)の日に種子蒔きを行っていた他の3人の酋長とともに彼の家を訪ねた。
 こうして島全体で同じ日に行われるようになった種子蒔きを祝う竹富島の種子取祭。祭の起源に関わった6人の酋長たちは、今では神としてそれぞれの御嶽(うたき)に祀られ、島ではそれら6つの御嶽を総称して六山(むーやま)と呼んでいる。それはまた、竹富島の基本精神である「うつぐみ(協力一致)の心」の大切さを物語る原点ともなっている。

今回の宿泊先「星のや 竹富島」。
竹富島の伝統を踏襲した建物と敷地は美しい。

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