行ったら、やっぱり、面白かった!NIPPON 再発見紀行

鵜飼、京野菜……
川の恵みで味わう京の夏

保津川下りで昼間の保津川を満喫した私は夕刻、浴衣に着替えて再び船に乗り、鵜飼を楽しむために星のや 京都から「一乃井堰」へ向かった。

堰のほんの上流では提灯をつけた船々がゆったりと行き交い、夜の帳(とばり)が下りかけた川岸からはヒグラシの鳴き声がかすかに響いてくる。私はほどよい川風を顔にうけながら三味線の音に耳を傾け、篝火の下で健気に狩りをくり返す鵜に何度も手をたたいた。それからよく冷えたシャンパンで喉をうるおし、「こんなことを毎日やってたら、人間だめになるな」とこぼし、暗くなっていく嵐山や愛宕山をながめた。

木材の迅速な大量輸送を可能にして京都の発展に寄与した角倉了以の偉業は、いまでは観光産業にも大きく貢献している。そんな話をすると、同席していたスタッフから思いがけない話を聞かされた。
「"星のや 京都"の前身の嵐峡館は、もともと了以の別邸だったんですよ」
「なぬ?」
「すぐ裏の峰には、保津川工事の犠牲者を弔うために了以が建てた寺がありますよ」
「それ、ひょっとして大悲閣?」
「ええ、大悲閣です」


翌8月1日の朝、早々に朝食をとった私は、宿を離れる前に大悲閣を目ざした。「星のや 京都」の出入り口を出てすぐ右手に登り口があり、そこには松尾芭蕉の句碑が立っていた。


花の山二町のぼれば大悲閣


一町は約109mである。目的地はすぐそこと軽快につづら折りの石段を上りはじめたが、傾斜はきつかった。息をきらして汗びっしょりになって参拝した大悲閣は、正式には千光寺といい、1611年、了以が亡くなった年に建立されたらしい。私は死後につくられた了以の木像にも手を合わせ、客殿に上がって保津川をながめた。深い木々の合間にちらっとのぞく川面は深緑色だった。遠くには京都市内と東山三十六峰がかすかに見えた。

左)星のや 京都の対岸の亀山からの風景。星のやより上流は舟は上る事は禁じられている。右)朝の散歩の後、「奥の庭」で川を眺めながら贅沢にも薄茶をいただく

「星のや 京都」を後にした私たちは桂川の下流へと車で移動し、昨晩も食した京野菜を育てる石割照久さんの自宅を訪ねた。九条ねぎ、みず菜、聖護院だいこん、壬生菜、えびいも、堀川ごぼう、伏見とうがらし……いまや高級なブランド産品となった京野菜がなぜ美味いのか、その理由などを学んだ私たちは、実際に石割さんの畑に案内してもらって驚いた。コンクリート製の高い堤防と桂川との間にある農地は昨年の洪水で表土が流され、一見ではどこが畑かわからなかった。

桂川河岸でさまざまな種類の野菜を作る石割さん。前の夜に星のやで食べた夕食に使われていた賀茂茄子の他、オクラにササゲ、イタリア産の茄子。中央はオクラの花。ちゃんとオクラの味がする

石割さんによれば、このあたりは昔から桂川の氾濫域で肥沃な土地となり、川に沿って畑作が行われてきた。石割さんの名字も、石だらけの石原を割って開墾してきた先祖の働きに由来している。そんな家業の伝統なのか、石割さんは洪水被害を嘆くことなく新たに20種類ほどの野菜を育てている畑を誇らしげに解説し、その場でそれらのいくつかを私たちに食べさせてくれた。どれこれも美味かったが、私がもっとも気に入ったのは、オクラの花だった。

石割さんは、野菜の新種を探して育てる面白さについて最後まで熱心に話してくれた。30歳までIT関連企業でサラリーマンをしていた石割さんにも、角倉了以に通底する進取の精神がみなぎっているのだろう。そんな感慨にふけりながら車で帰路についた私は、三つの名前をもつ川の魅力を思った。鴨川の川床で酔いしれる夏も素敵だが、保津川、大堰川、桂川のそれぞれの恵を堪能するのも変化があって面白い。

そして。

いつかそう遠くないうちに、三つの名前をもつ川の発展に決定的な貢献をした角倉了以が、大河ドラマの主人公となりますように。

参考文献

今回の旅で立ち寄った場所

旅人のお二人

旅のバックナンバー

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