行ったら、やっぱり、面白かった!NIPPON 再発見紀行

久しぶりに渡月橋を訪ね
角倉了以を発見する

小学生の頃に初めて訪ねてから40余年、京都市内には優に100回は足を運んできた。神社仏閣、学生街、南座、先斗町、宮川町、動物園、美術館、知人友人宅……地図がなくても、さほど迷わずに目的地にたどりつくことができる。しかし2013年夏、台風18号によって桂川が氾濫し、渡月橋周辺の店舗が冠水するニュース映像をテレビで見たとき、私はちょっと戸惑った。鴨川沿いの町並みならばすぐに眼前に浮かんでくるくせに、渡月橋を見ても、背景にある嵐山ぐらいしか想像できないのだ。

記憶をたどってみれば、渡月橋界隈を散策したのは、小学6年生の1度きり。私は京都市西部、桂川周辺に疎かった。


7月30日、JR京都駅からタクシーに乗って渡月橋の南端で降りた私は、観光客でごった返す橋から川沿いに下り、そこにあった表示板に目をやった。
〈一級河川 桂川(大堰川) 国土交通省〉

桂川の上流を保津川とよぶことは知っていたが、橋の前後が大堰川(おおいがわ)とよばれることは知らなかった。あらためて前方を見れば、渡月橋はふたつに分かれている。川の北端から中州(中之島公園)までが渡月橋で、そこから南端に架かる橋は、正式には渡月小橋となる。中州のわずか上流には「一乃井堰」があり、川端で本流と分かれた水は農業用水として活用され、京都の米や野菜を育む源となっている。

大堰とは、川中に人の手によって造られた土木構造の意だ。私はかつて読んだ渡来人の歴史を思い出した。古代に朝鮮半島から日本へ渡ってきた秦氏は、その優れた農業土木技術で京都盆地の西北一円を美田の地にしたという。嵯峨野も桂も彼らが整備した史実を思えば、視界にある中州や「一乃井堰」の原形も彼らの手によって造られたのだろう。

しかし、最初に橋を架けたのは秦氏ではなく、空海の弟子の道昌となっている。空海の命をうけ、奈良時代初期に行基が建てて廃れていた葛井寺を再興し、寺号を法輪寺と変えた道昌。遷都で都となった京から参詣する人々を迎えるために彼が架けた橋は、だから、平安時代を通じて法輪寺橋とよばれていた。

保津川と桂川がよく知られている名だが、星のやがある嵐山公園辺りから一井乃堰を通り、嵐山を抜けるまでは「大堰川」とよぶようだ。今回の旅のキーマンとなった豪商、角倉了以。保津川の開削工事をした後は、徳川家康の命で高瀬川整備など数々の大事業を行った

現在の位置の渡月橋は、江戸時代初期に角倉了以(すみのくらりょうい)が架けた。

観光用パンフレットでそう知った私は、角倉了以なる人物に強い興味をいだきつつ、北端の先にある天龍寺を参拝するため、渡月橋をまた歩いた。途中で足をとめて川面を見下ろすと、ずいぶん近くに水を感じた。それだけに見上げた先にある愛宕連山の峰々が高く見えた。少し日が陰れば、山水画の気配にふれることができそうだ。川に近く水平に架かる渡月橋は、その景観だけでなく、そこに立って嵯峨野を愛でる上でも名橋だった。

酷暑の下、英語、フランス語、中国語が飛びかう中で天龍寺の本堂や庭園をめぐった。世界文化遺産になっている寺の所有地は、明治10年の太政官布告が出されるまでは現在の10倍あったらしい。亀山と嵐山のほとんど、そして渡月橋付近から京福電鉄嵐山駅あたりまでが天龍寺の境内だった。夏目漱石は明治40年の京都旅行の際にこの寺に立ち寄り、後に『虞美人草』で登場人物にも散策させ、開山した夢窓国師をほめている。

夢窓国師は、日本史上最大の混乱期である南北朝を引きおこしたそれぞれのリーダー、後醍醐天皇と足利尊氏の双方から敬われた。生前に三つの国師号をうけたという事実だけでも人望人徳の高さがうかがえるが、夢窓国師は後醍醐天皇が吉野で崩御したとき、菩提のために巨刹を建ててはどうかと尊氏に提案。尊氏はすぐに賛同した。

天下を文字どおり二分した双方の和解策とはいえ、室町幕府には巨刹建立のための資金がなかった。そこで打ち出されたのが、天龍寺船による元との貿易だった。開山の準備段階に官許の貿易権をもった天龍寺は、首尾よく利益を出して堂々たる寺を構えた。それから中国の覇者が元から明に変わっても交易をつづけ、隆盛を極めていく……。

手もとに集めた資料を一気に読み進めると、この天龍寺と角倉家が深い関わりをもっていたとあった。私はますます角倉了以について知りたくなった。

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