- REPORT.01 観光地の原点を探るべく いざ箱根へ
- REPORT.02 甘酒、温泉、名品、霊験、そして絶景 旅人が愛した箱根の魅力
- REPORT.03 箱根と熱海 二大観光地をつなぐ龍の伝説
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十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は旅のガイドブックとしても秀逸
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昨年10月初旬、伊勢神宮では20年に1度の遷宮が斎行された。その後、新しくなった内宮外宮の正殿前には全国から多くの参拝客が訪れ、今や伊勢詣はブームとなっている。
伊勢詣、いわゆる「お伊勢参り」が現在のように一般の人々にも普及したのは、江戸時代だった。徳川幕府によって街道が整備され、宿泊施設だけでなく駕籠や川渡しのサービスも充実した江戸時代、領民の移動を嫌った領主も、旅の目的が全国の氏神の総本社である伊勢詣とあっては認めるしかなかった。領民もまた、領地の五穀豊穣と領主の武運長久を願うために参拝すると申請して、旅の許可書を入手した。
思えば、享和2年(1802)に刊行されて大ベストセラーとなった十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次・北コンビがめざしたのも、伊勢だった。江戸を発った見栄っぱりの二人の行動がテンポよく描かれるこの本には、当時の各宿場の様子、名物や土産物、留女や駕籠かきとの交渉術、それらに関する諸々の料金など、旅の情報が詳しく書かれている。いわば江戸後期の旅のガイドブックでもあった『東海道中膝栗毛』を再読した私は、今に通じる観光地の原点を確かめたいと思い、1月下旬、その初編のゴール地、箱根へ向かった。 ↙
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明治になって鉄道が敷かれるまで、旅人は日に十里(約40km)のペースで東海道を歩き、小田原宿で体調を整えてから芦ノ湖畔の箱根宿をめざした。弥次・北も夜明け前に小田原を出発し、「天下の険」と畏れられた箱根の山を登っている。東京から車に乗って2時間ほどで箱根山中に入った私は、途中、弥次・北の気分を味わおうと畑宿で車を降りてみた。
歌川広重「東海道五十三次 小田原・酒匂川」。川を渡った先にあるのが、東海道の難所、箱根の山々。手前には小田原城
畑宿の一里塚 江戸から23里
江戸時代の石畳の作りがよくわかる西海子坂
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畑宿は小田原と箱根間の間宿(あいのしゅく)で、復古された一里塚とともに当時の石畳の坂道が保存されている。江戸から23里と示す左右の一里塚の間を抜けて旧街道の西海子坂を進むと、すぐに鬱蒼とした杉林に囲まれた。数日前に降った雪の名残か、凹凸が目だつ石畳は濡れていた。私は木洩れ日をあびて乾いた石を頼りに足を進めたが、少しずつ確実にきつくなっていく傾斜に息を荒げ、70メートルほど行ったところで立ち止まった。
息を整えるたび、山の冷気が肺深くに入りこんだ。心地よかった。
延宝8年(1680)に石畳道に改修されるまでは、雨や雪がふると、旅人の膝まで土砂が溜まった西海子坂。そんな坂がいくつもあったことは、登ってきた急峻な山を見下ろせばよくわかる。石畳が敷かれても足への負担は大きく、日に十里歩いた古の旅人たちも、箱根では八里が限界だったらしい。私は弥次さんが詠んだ狂歌を思い出し、足裏で石畳の厳しさを確かめた。
〈人のあしにふめどたたけど箱根やま本堅地なる石だかのみち〉