いっそ、そろばんで計算しようか

界 雲仙、最新テクノロジーが無力化した”地獄”での奮闘記

湯けむりの彼方にある知恵 〜古の「燗(かん)付け」と雲仙の記憶〜

煮えたぎる「地獄」との付き合い方

長崎県・雲仙。標高700メートルに位置するこの温泉地は、日本でも有数の「地獄」に隣接しています。 地面の裂け目からはシューシューと音を立てて高温の蒸気が噴き出し、空気は常に硫黄の匂いを孕んでいる。湧き出る源泉は強酸性で、温度は最高で90度以上。そのままでは触れることさえ危険な、荒ぶるエネルギーの塊です。

しかし、開湯1300年以上前と伝わる歴史ある温泉地で、先人たちは、この恐ろしい「地獄」をただ眺めるだけでなく、生活の一部として飼い慣らす術(すべ)を持っていました。

それが、雲仙独自の熱交換システム「燗付け」です。

自然の力で水を温める「エコな給湯器」

この「燗付け」の仕組みは極めてシンプルかつ合理的です。地獄地帯に網の目のように張り巡らされた配管。そこには、雲仙の山々が育んだ冷たい湧き水が流れています。

この冷水のパイプを、煮えたぎる源泉の釜の中や、蒸気が噴き出す噴気孔の中に通すのです。 すると、パイプの中の冷水は、地獄の凄まじい熱を受けて温められ、燃料を一切使うことなく熱々の「お湯」へと変わります。

まさに、湯煎で温めるように、大地の熱で生活用水を作る。 ガスも電気もない時代から、雲仙の人々は地球のエネルギーを直接「管(くだ)」に繋ぎ、客室の給湯や暖房、あるいは入浴に適した温度調整に利用してきました。

100年前のSDGs

この仕組みの素晴らしい点は、単にお湯を作るだけではありません。地表から溢れ出す圧倒的な熱エネルギーを、生活に必要な「給湯」「暖房」「空調」といった様々な用途のエネルギー源として、ダイレクトに活用できる点にあります。

大地の熱をパイプが吸い上げ、人々の暮らしの動力へと繋いでいく。化石燃料を燃やすこともなく、CO2も排出しない。現代でこそ「SDGs」や「エコロジー」と称賛されるような、自然の熱を余すところなく使い切る循環システムを、雲仙は100年も前から当たり前の日常として実践してきたのです。

私たち「界 雲仙」は、この古(いにしえ)の知恵を、現代の技術で活かしたいと考えました。先人が工夫した熱交換の仕組みを、効率的に利用できるシステムとして構築する。

それは、歴史を大切にし、この地で旅館を営む者として自然への配慮を形にすることだと考えました。

究極の理想、ボイラーレスへの挑戦 〜最新鋭テクノロジーが描いたSDGsの夢〜

化石燃料を燃やさない、という挑戦

界 雲仙が建つこの場所は、国立公園内であり、地球の鼓動が地表に溢れ出す特異な場所です。この豊かな自然環境の中で運営する責任として、私たちは開業にあたり、ある一つの大きな目標を掲げました。

それは、「ボイラーを使わない旅館運営」への挑戦です。

通常、温泉旅館では給湯や暖房のために多くの燃料を必要とします。しかし、私たちの足元には、無尽蔵とも言える地熱エネルギーが眠っています。この恵みを最大限に活用し、環境負荷を最小限に抑えること。それが、この地で開業する私たちの使命であると考えたのです。

現代によみがえる「燗付け」システム

その要となったのが、この地に古くから伝わる知恵「燗付け」の仕組みです。かつての雲仙の人々は、地表に溢れ出す圧倒的な熱のそばに冷水のパイプを通し、地熱の力を借りて水を温め、生活に活かす技を持っていました。私たちは、通常であればボイラーが担うはずの「水を温める」という機能を、この燗付けの原理で賄うという、現代の技術による再現を試みたのです。

雲仙の清冽な湧き水を、地中から届く巨大な熱源によって、給湯や空調に必要な温度まで一気に引き上げる。化石燃料を一切燃やすことなく、大地のエネルギーだけでこの昇温プロセスを完結させる。それは、自然の熱を動力源として循環させる、持続可能な温泉旅館のモデルケースとなるはずの設計でした。

硫黄との戦い、慎重な準備

もちろん、この計画には大きな懸念事項がありました。雲仙地獄特有の「腐食性ガス(硫化水素)」です。金属を錆びさせ、電子機器に深刻なダメージを与えるこの環境下で、精密機器を維持することは容易ではありません。

そのため、設計段階から慎重な対策が重ねられました。 主要な機器を収める機械室は、外気を遮断し、特殊なフィルターを通した空気のみを循環させることでガス濃度を管理。基板のコーティングや耐食性素材の選定など、当時の技術で考えうる限りの防御策を講じました。

「これなら、この過酷な環境でも運営できるはずだ」

開業の日、システムが静かに稼働を始めた時、私たちの中にあったのは慢心ではなく、祈るような気持ちでした。理論と準備を積み重ね、ようやくスタートラインに立てたという安堵感。

しかし、自然という相手は、人間の想定や準備を軽々と超えてくる存在でした。私たちはすぐに、その圧倒的な現実と対峙することになります。

圧倒的な自然の力 〜想定外の熱量と、狂い始める計算式〜

制御不能のエネルギー

開業してまもなく、私たちは自然という相手の「本当の大きさ」を目の当たりにすることになります。 準備を重ね、計算を尽くしたはずの私たちの想定を、大地のエネルギーは軽々と超えていきました。

まず私たちを驚かせたのは、その桁外れの「熱量」です。敷地内の駐車場、そのアスファルトの地面に、ある日突然、地割れが生じたのです。地面の下に渦巻く熱気は、人間が決めた配管ルートだけでは収まりきらず、その強大なエネルギーでアスファルトの地表を引き裂いてしまったのです。

館内も同様でした。快適な室温を保つはずだった空調設計は、早々に修正を余儀なくされました。 床暖房を入れていないはずのエリアが、真冬でも汗ばむほどの常夏状態になる。バックヤードの壁一枚隔てた向こう側には、常に沸騰するような熱が渦巻いている。 「暖房がいらない」といえば聞こえはいいですが、それは「温度の制御が効かない」という、管理する側にとっては冷や汗が出るような現実でした。

沈黙するハイテク機器たち

そして、最も懸念していた事態が現実のものとなります。目に見えない気体、硫化水素ガスの侵入です。

「陽圧管理でガスの侵入を防ぐ」「特殊コーティングで守る」 あれほど慎重に構築した防御網を、ガスは静かにすり抜けていきました。 空気中のわずかな湿気に溶け込んだガスは、ミクロの隙間から電子基板へと忍び寄り、回路を腐食させ、断線させていく。

昨日まで正常に動いていたセンサーが、今日は異常値を叩き出す。 自動制御で開閉するはずのバルブが、うんともすんとも言わなくなる。 最新鋭の中央監視システムには、一つ、また一つとエラーのアラートが灯り始めました。メーカーの想定や実験室のデータを超えた環境下で、現代のテクノロジーはあまりにも脆弱でした。

「そろばん」を取り出せ!

システムが不安定になっても、旅館の運営を止めるわけにはいきません。ゲストは今日もお越しになります。 モニターの数値が信用できなくなった瞬間、現場のスタッフたちは一斉に動き出しました。

頼れるのは、自分の目と耳、そして肌感覚だけ。 配管に取り付けられたアナログの温度計を目視で確認し、配管のバルブを手動で回して湯量を調整する。無線が通じにくいエリアでは、声を掛け合って連携を取る。 涼しい顔でコンピュータを操作するはずだったスタッフたちは、汗まみれになって館内を奔走することになりました。 そんな混乱の最中、誰かがふと、こんな冗談を口にしました。

「いっそ、そろばんで計算しましょうか」

最新のPCでさえ次々と不具合を起こすのなら、最後に残るのは木の玉を弾くあのアナログな道具しかないのではないか。 それは苦笑いと共に出た言葉でしたが、同時に私たちが直面している現実の核心を突いていました。 一周回って、もっとも原始的な方法こそが、この過酷な「地獄」では最強の解決策になり得るのではないか――。

私たちは、ハイテクによる制御の限界を知り、泥臭い現実の対応へと舵を切ることになったのです。

"地獄"との調停 〜デジタルとアナログの間に見つけた最適解〜

管理ではなく、対話を

度重なるトラブルと、現場での試行錯誤を経て、私たちは一つの重要な事実にたどり着きました。 それは、自然を完全に「コントロール」しようとすること自体が、この土地では無理な願いだということです。

地球は生き物であり、地獄の機嫌は日々変わります。 雨が降ればガスの濃度が変わり、気温が変われば配管の圧力も変わる。そんな不確定な要素の塊に対して、画一的なプログラムで対抗しようとすれば、システムが破綻するのは必然でした。

私たちは考え方を改めました。 自然をねじ伏せるのではなく、自然の振る舞いにこちらが合わせる。「管理」ではなく「対話」を。 壊れることは前提。トラブルは日常。ならば、それをいかに早く察知し、いかに柔軟に対応できる体制を作るか。 意識の変革こそが、この過酷な環境で生き残るための第一歩でした。

デジタルとアナログのハイブリッド・オペレーション

現在の界 雲仙の運営は、当初描いていたフルオートメーションの未来図とは少し異なります。しかし、それは決して退化ではありません。

腐食に弱い繊細なセンサー類は最小限にしつつ、重要な監視ポイントは強化する。 そして、機械が苦手とする「微妙な変化」を感じ取る部分は、人の手に委ねることにしました。

「今日は湿気が多いから、ガスの滞留に気をつけよう」

「温泉の温度や水位が適正か手で触れたり目視で確認しよう」

スタッフたちは日々、五感を研ぎ澄ませて館内を巡回します。それはまさに、かつてこの地で「燗付け」を守り続けた先人たち――「湯守(ゆもり)」の姿そのものです。 最新のテクノロジーによる監視と、人間ならではの予知能力。 デジタルとアナログ、その両方の長所を組み合わせたハイブリッドな運営こそが、"地獄"と付き合うための私たちなりの最適解だったのです。 「そろばん」こそ使いませんでしたが、私たちは確かに、デジタルの裏側で泥臭く手を動かすことの重要性を学びました。

計算できないから、旅はおもしろい

 

結局のところ、自然という相手は、デジタルの「0」と「1」だけで割り切れるほど単純ではありませんでした。 しかし、思い通りにならないからこそ、この地での滞在は面白いのです。

私たちは今、最新のモニターを監視しながら、同時にかつての湯守(ゆもり)のように、風の匂いを嗅ぎ、配管の音に耳を澄ませています。 デジタルとアナログ。最新技術と古の知恵。そして、地獄の荒々しさと、極上のくつろぎ。 一見すると相反する要素が複雑に絡み合い、計算式を超えた化学反応を起こしているのが、今の「界 雲仙」です。

「いっそ、そろばんで計算しようか」

あの時の冗談は、あながち間違いではなかったのかもしれません。 すべてが効率化された現代において、私たちが真に提供したかったのは、データや計算では決して弾き出せない「人間味あふれる滞在」だったのですから。

王道のおもてなしと、あたらしい技術の融合。 その答え合わせはぜひ、皆様ご自身の五感で感じてください。

界 雲仙

地獄パワーにふれる、異国情緒の宿

長崎由来の文化をデザインした館内は異国情緒が漂う空間。温泉地獄と地続きの宿では癒しとともに活力もみなぎる滞在をお過ごしいただけます。