「もう水牛車には乗れないかも…」竹富島の魂を島人とホテルスタッフが繋いだ秘話

~コロナ禍で消えるはずだった究極の非日常体験~

南風に揺れる、竹富島の記憶

沖縄本島から遠く離れた八重山諸島にある竹富島は、時間がゆっくりと流れる、まるで絵のような島です。白い砂の道、サンゴの石垣に囲まれた赤い屋根の家々、そして色とりどりの花々が咲き誇り、昔ながらの沖縄の風景がそのまま残っています。島の人々は温かく、穏やかな暮らしを大切にしています。

2012年、「星のや竹富島」は、そんな竹富島の美しい風景と文化を体験できる特別な宿としてオープンしました。開業当初から、この宿には大切に育まれてきた特別な体験があります。 それが、水牛車に揺られて島を巡る「水牛車散歩」です。

これはただのアクティビティではありません。島の魂に触れ、島の歴史と未来を繋ぐ、星のやと竹富島の「約束」の物語なのです。

一番乗りで、最も美しい島の風景を - 開業の夢と挑戦

星のや竹富島の開業準備中、私たちはこの島ならではの特別な体験をお客様に提供したいと考えていました。竹富島といえば水牛車。それを星のやならではの形で体験してもらいたい。 その想いは、開業当時の総支配人と、竹富島で長年水牛車観光を営んできた新田観光の代表、新田長男さんの間で何度も話し合い、具体的なアイデアが生まれました。

竹富島の集落の道は、白砂が敷き詰められており、そこを島の住人が毎朝掃き清めることが日課になっています。その風景のなか、お客様には水牛に乗って非日常体験をしてほしいと。 そして生まれたのが、「早朝、観光客がまだいない静かな時間に、その日一番乗りで、最も美しい状態の白砂を水牛車で案内する」というアイデアでした。

早朝は、誰も足を踏み入れていない、島の人々によって掃き清められた白砂の道を、朝日を浴びながら水牛と共に進む。それは、星のや竹富島のお客様だけが味わえる、まさに「特等席」です。

この特別な体験を実現するためには、日帰りの観光客が島に渡ってくる前の時間帯にツアーを行う必要がありました。新田観光にとっても、それは通常行っていなかった時間帯の運行でしたが、星のやの熱意と、お客様限定だからこそ提供できる価値に共感いただき、協力をしてくれました。

水牛は島のパートナー - 受け継がれる歴史と新田観光の誇り

そもそも竹富島において、水牛は古くから人々の暮らしに欠かせない存在でした。昔、農業が中心だった時代、水牛は重い農作物や農機具を運ぶ貴重な労働力として、島民の生活を支えていました。おとなしく賢い性格で、狭く入り組んだ集落の道も上手に進むことができたそうです。

しかし、時代は変わり、1960年頃から島の人口が減少し、農業も衰退していきました。島の主な産業が観光へと変わっていく中で、水牛はその役割を観光へと移していきました。

そして1978年、新田長男さんの父が経営していた民宿「新田荘」が、竹富島で初めて水牛車観光をスタートさせました。

新田観光さんは、島の暮らしや景観への配慮を何よりも大切にしています。新田観光のツアーは、単に観光客を運ぶだけではなく、竹富島に住む人々が三線で島唄を奏で、島の歴史や文化、暮らしぶりを語り聞かせながら、ゆっくりと集落を巡ります。そこには、島を愛し、島の伝統を未来に伝えたいという強い想いがあります。

「島の聖域と呼ばれる場所を避け、島民の生活を邪魔しないように」

目先の利益ではなく、島との共存共栄を目指す姿勢。 それこそが、星のやがお客様に提供したい「その土地の本物の体験」の根幹にあるのだと思います。

こうして始まった星のや竹富島の水牛車散歩。

それは、島の美しい自然や文化に触れるだけでなく、そこに暮らす人々の想いや、長い年月を経て受け継がれてきた島の魂に触れる旅でもありました。早朝の静寂の中、水牛の蹄の音と三線の音色が響き渡る。それは、星のや竹富島と島の人々が交わした、大切な約束の音色です。

しかし、この穏やかな時間に、やがて大きな試練が訪れることになります。世界中を覆ったコロナ禍の影響、そして長年水牛車を支えてきた人々の高齢化という、抗いがたい現実の波が、この小さな島にも静かに、しかし確実に押し寄せていたのです。

「もう、水牛車は出せないかもしれない」 - 忍び寄る危機

「新田観光さんから、水牛車散歩を続けるのが難しい、というお話があったのは、コロナ禍が深刻化し始めた頃でした」と、当時を知るスタッフは、その時の衝撃を振り返ります。長年、私たちと共に水牛車散歩を支えてきた新田観光の担当者が高齢化し、その後継者も見つからない。

さらに、コロナ禍による観光客の激減が追い打ちをかけました。島の宝ともいえる水牛車文化の灯火が、静かに消えようとしていたのです。

水牛車の運行には、水牛の世話や調教、そして何よりも島の歴史や文化を深く理解し、それを伝えることができる「乗り手」の存在が不可欠です。

しかし、その担い手を見つけることは容易ではありません。365日、休みなく行う朝夕の牧草地への移動と餌やり、水浴びなどの世話をはじめとした専門的な知識や経験はもちろんのこと、島への深い愛情と、訪れる人をもてなす心が求められるからです。

「新田観光さんで、もう水牛車散歩はできない、と…」。その言葉は、私たちにとって、あまりにも重い宣告でした。

「星のやで牛を飼う?」 - 前代未聞の挑戦と知られざる奮闘

しかし私たちは、諦めませんでした。

「竹富島本来の水牛車散歩を未来に残したい」。

その一心で、前例のない挑戦が始まりました。施設内で水牛を飼育し、自社でツアーを運営するというアイデアが出たのです。

当時の総支配人はこう語ります。

「本当に本気で水牛の飼育を検討したんです。施設内で牛や馬を飼育している星野リゾートの他の施設、例えばトマムや青森屋にコンタクトを取り、オペレーションや必要な許可について詳細な調査を行いました」

しかし現実は厳しく、水牛の飼育には専門的な知識と膨大な手間がかかります。毎日の餌やり、水浴び、広大な飼育スペースの確保、そして何よりも動物を扱うための法的な許可や資格の問題。自社運営の道が現実的でないことに段々と気づきはじめました。

さらには一緒に頑張っていた総支配人が異動になるという、施設運営にとっても過渡期を迎えていました。

新たに着任した総支配人は、星のや竹富島に着任したときのことをこう話します。

「着任が決まって間もない頃、前総支配人から転送されてきた最初のメールが、『水牛車散歩が止まります』という件名のもので、そのメールに対して、マーケティングチームから『絶対に止めないでほしい』という返信が来ているメールでした。」

水牛車散歩は、星のや竹富島を象徴するコンテンツであり、それがなくなることは、施設の魅力を大きく損なうことを意味していたのです。

「あの時は本当にどうしようかと…。既に前総支配人時代にあらゆる対策を講じ、それでも八方塞がりになりかけていた状況でしたから…」。施設で牛を飼う道は断たれ、施設の中では焦りと諦めに似た空気が漂い始めていました。

しかし、その『水牛が止まります』というメールは、逆説的に水牛車ツアーの重要性を再認識させ、私たちを再び奮い立たせるきっかけともなりました。 「なんとかしなければならない」。

その想いは、施設全体で共有され、目に見えない大きな力となっていきました。途絶えかけていた轍を、再び繋ぎ止めるために。島の魂を乗せた水牛車を、もう一度動かすために。私たちの、静かで熱い挑戦は、まだ終わっていませんでした。

キーパーソンとの出会い - 島の方の心を動かした「ゆんたく」

次なる策として、島内で水牛車ツアーの新たな担い手を探すべく奔走を始めました。総支配人や、島民を知り尽くしたスタッフが中心となり島中を駆け回りました。それは、単に仕事として担い手を探すのではなく、竹富島の文化を未来に繋ぐという使命感を胸に抱いた、熱い想いのリレーでした。

島内での後継者探しが精力的に進められる裏側で、すでに水牛車の文化と伝統を護ろうとする島人たちの静かで熱い奮闘がありました。星のやのスタッフが辿り着いたのは、井上寛文さんと野原健さんという二人のキーパーソンでした。

井上さんは竹富島に移住して長く、昼は新田観光で長らく水牛の世話をし、夜は集落内でバー「月灯(つきあかり)」を営む人物。

野原さんは竹富島出身で、島の祭事の唄を担う「地謡(じかた)」の一人でもあり、島の中で信頼される存在でした。

実は、これまで水牛車を支えてきたベテラン(おじい)たちが引退し、運行が停止寸前になった後も、井上さんは諦めていませんでした。 コロナ禍と高齢化の影響で新田観光が水牛を手放そうとした時、「おじいさんたちから受け継いできたこの島の宝である水牛を、たった1頭でも残す」という強い使命感から、井上さんは水牛の世話を一人で継続。水牛車という島の宝を孤軍奮闘で護り続けていたのです。

そして、この想いに共感した野原さんと共に、様々な可能性を模索しました。

彼らが試行錯誤し、共に取り組んだ策は多岐に渡りましたが、新たに事業を立ち上げることの難しさ、そしてコロナ禍による集客の大きな壁が立ちはだかり、これらの挑戦は残念ながら断念せざるを得ませんでした。

一方、自社での飼育を断念した星のや竹富島のスタッフは、新たな担い手を探し奔走する中で、島民の生活や人間関係を深く知り尽くしたスタッフを通じて、井上さんや野原さんが個人的に強い想いを持って奮闘していることを知ります。 「新田観光」と「星のや竹富島」という企業同士の交渉ではなく、「水牛車を守ろうとしている井上さん、そして彼の想いに共感している野原さん」というお二人に対し、直接交渉をしてみよう。

この判断こそが、事態を動かす転機となりました。

「このお二人の協力がなければ、水牛車散歩の復活は難しかったでしょう」。当時、交渉を担当した星のや竹富島のスタッフはそう語ります。

そのスタッフは島民の生活リズムを熟知しており、巧みなコミュニケーション能力で、島で複数の仕事を持つ2名とも直接対話の機会を設けることに成功しました。

メールや電話ではなく、直接顔を合わせ、膝を突き合わせて話をする。竹富島では、そうした昔ながらのコミュニケーションが何よりも重要だったのです。

正式な会議というよりも、まずは井上さんの営むバーに足を運び、共に酒を酌み交わし、世間話から入る「ゆんたく(おしゃべり)」の時間が大切でした。そこで少しずつ信頼関係を築き、本題を切り出していく。

それは、単なるビジネスの交渉ではありません。人と人との繋がり、パーソナルな信頼関係を丁寧に紡いでいく作業でした。子どものことからパートナーの話まで、島の人々の日常に深く入り込み、家族同然の付き合いの中で、仕事が生まれていく。星のやのスタッフたちは、その島の流儀を尊重し、根気強く関係を育んでいったのです。

スタッフは、島への深い敬意と、水牛車を未来に残したいという星のや側の熱い想いを、改めて井上さんと野原さんに切り出しました。この真摯な姿勢と、島の流儀を尊重したコミュニケーションによって、お互いに心の奥底に秘めていた「水牛車をなくしたくない」という本音をぶつけあい、根っこの部分で同じ熱い想いを共有していることに気がつきます。

井上さんの熱い「想い」に、星のやスタッフの「熱意」と、野原さんの「島を想う心」が共鳴し、形式的な会議では決して出てこなかった心の内を話し合ったことで、諦めかけていた再開に向けた具体的な道筋が、ようやく見え始めてきました。

心と心で繋ぐバトン - 新たな担い手と、若きスタッフたちの情熱

井上さんと野原さんという頼もしい協力者を得て、水牛車散歩復活への道筋が見えてきました。

しかし、それはゴールではなく、新たなスタートでした。新しい担い手との間で、ツアーのオペレーション、料金設定、お客様への案内方法など、全てを一から再構築する必要があったからです。

島の文化や歴史に深い敬意を払い、島の人々とのコミュニケーションを何よりも大切にしました。「島の人と積極的にコミュニケーションを取りたい、島をもっと深く知りたいという純粋な興味がモチベーションでした」と復活のプロジェクトを担った小寺さんは語ります。

彼女は竹富島に住み込み、仕事終わりや休日にも島民と顔を合わせ、何気ない会話を重ねることで、少しずつ心の距離を縮めていったのです。

2024年の夏、ついに「朝の水牛車散歩」が復活を遂げました。

そして同年秋には、新たに「夕暮れ水牛車散歩」が誕生しました。途絶えかけていた轍は、多くの人々の熱意と努力によって、再び力強く刻まれ始めたのです。

海風を感じるルートへ - 水牛と共に描く、星のや竹富島の未来

現在、星のや竹富島の水牛車散歩は、朝と夕暮れ、それぞれ異なる魅力でお客様を魅了しています。

しかし、関係者たちの夢はさらにその先へと広がっています。

「いつか夢見た、水牛車で海を見に行くというルートが実現したら素晴らしいですね」。小寺さんはそう語ります。

島民の井上さんからも、現在の集落内巡回だけでなく、海辺までルートを広げるアイデアが出されており、活発な意見交換が行われています。

水牛の蹄跡を、島の美しい海岸線にまで延ばしていく。

それは、訪れる人々にとって、さらに忘れられない体験となるでしょう。 島の魂を乗せて、ゆらりゆらり。水牛の歩みはゆっくりですが、その一歩一歩は、竹富島の豊かな文化と、それを受け継ぎ未来へと繋ごうとする人々の確かな足跡です。

星のや竹富島

ウツグミの島に楽土あり

石垣島から船で約10分、沖縄の伝統建築や景観が保たれ、国の保存地区に指定されている竹富島。その街並みを踏襲して作られた離島の集落。一致協力を意味する「ウツグミ」の精神で島の文化を大切に伝える、唯一のラグジュアリーリゾートです。