船頭が、130年の歴史を持つ蔵でバーを開く

星のや京都「薫香bar」が生まれるまで

各施設が独創的なテーマを掲げ、その土地の歴史や文化を尊重しながら、圧倒的非日常を提供する「星のや」。訪れるゲストがその地の物語に浸り、その季節でしか出会えない最高の瞬間を届けるため、舞台裏ではスタッフたちによる数多くの試行錯誤と、譲れないこだわりが積み重ねられています。

今回ご紹介するのは、京都・嵐山の渓谷に佇む「星のや京都」に誕生した、少し変わったバーのお話です。それは、日々「船頭」として川に立つスタッフが、歴史ある蔵の中で、香りとウイスキーを掛け合わせるという未知の挑戦に挑んだ記録でもありました。

旅の始まりは、川面を渡る15分間から

嵐山、渡月橋のにぎわいを背に、船頭が舵(かじ)を操ります。大堰川(おおいがわ)をさかのぼること約15分。両岸の山が迫るにつれて空気がひんやりと変わり、川面が静かな翡翠色へと染まっていく。その先にひっそりと建つのが、星のや京都。江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が嵐山に構えた別邸跡地に建つ、水辺の私邸です。

この宿に「薫香bar(くんこうbar)」がオープンしたのは、2025年のこと。場所は、施設の奥にたたずむ、約130年前に建てられた蔵。漆喰の白壁、高い天井を渡る太い梁(はり)。日中は宿泊者が歓迎のお菓子やドリンクを楽しめるこの空間が、夜になるとキャンドルに照らされ、静かなバーへと姿を変えます。

そこで待ち受けるのは、厳選されたジャパニーズウイスキーと、白檀や沈香などの香木や古来の香原料(こうげんりょう)を「香り」で組み合わせるという、珍しい体験です。

船頭がひそかに温めていた「バーへの憧れ」

この薫香barの立ち上げを担った一人に、表 瑠海(おもて るか)という人物がいます。

その時、2022年に入社し、4年目。彼のメインの仕事は船頭です。宿泊者を乗せて大堰川を行き来し、舵を取りながら嵐峡の景色を案内する。口数は決して多くありませんが、プライベートでは自分のお気に入りのバーをひっそりと訪ね歩く時間を大切にするなど、お酒の世界に静かな関心を持っていました。

「いつか、星のや京都の中に、自分たちの手でバーを形にしてみたい」

そんな想いを抱いていた表に、絶好の機会が訪れました。施設として「夜の体験」を見直す議論が持ち上がった際、かつて営業していたものの、コロナ禍で休止していたバーの再設計が決まったのです。表は迷わず手を挙げました。

それからというもの、表は仕事が終わると自宅でカクテル作りの研究を始めました。自分の納得のいく一杯を形にしたいという想いは強く、限られた時間の中で試行錯誤を繰り返す日々が続きました。

「難しくしない」という、難しい決断

実は、薫香barの原型となる企画は数年前にも一度ありました。当時も「香りとお酒」を組み合わせる体験でしたが、コンセプトが非常に専門的で、リラックスしたいお客さまにとっては少し敷居が高く感じられてしまうという課題がありました。

そこで、表とともに企画を練り直したのが、ソムリエの資格を持つ二宮 知嵩(にのみや ともたか)でした。二宮はプロフェッショナルな視点から、お酒と香りのペアリングの土台作りをサポート。二人が下した決断は、コンセプトを「右脳(感性)」へと大きく舵を切ることでした。

ウイスキーと香原料の組み合わせを、理論で語るのではなく、夕食後のゆったりとした時間に直感で楽しんでもらう。スタッフが「正解」を教えるのではなく、お客さま自身がいろいろな香りを試し、自分だけの「好き」を見つけるスタイルです。

香りの説明を求められたときも、難しい言葉は使いません。「仏壇の香りですね」「実家のタンスの匂いに似ていませんか?」といった、誰もが共通して持っている身近な記憶に置き換えていきました。

そして、ネーミングの表記にもこだわりました。「薫香BAR」と大文字にすると堅苦しい。何度も話し合った末に、「薫香bar」という小文字の表記に落ち着きました。

「高級なお酒を並べる本格的な場所を想像させるのではなく、もっとゆったりと自分に戻れる場所なんだよ、というメッセージを込めたかったんです」

「夕紅(ゆうべに)」に込めた、嵐山の情景

ウイスキーに馴染みがないお客さまにも、この体験を届けたい。その想いから、表はオリジナルカクテルの開発に取りかかりました。二宮のアドバイスを仰ぎながら、香りが立ちやすい和スピリッツやシナモンなどの素材を選定。

ようやく形になった一杯に、表は「夕紅(ゆうべに)」という名前をつけました。

なぜその名前なのか、と尋ねると、彼は少し間を置いてこう答えました。

「景色が浮かんで欲しかったんです。夕暮れ時、嵐山の空が赤く染まる、あの瞬間の色を」

普段、船頭として川の上から見つめている風景を、グラスの中に表現する。口数の少ない表の心の中にある詩的なイメージが、確かな「味」として結実した瞬間でした。

蔵がその瞬間の特等席に変わるとき

今も表は、昼間は川の上にいます。舵を取り、嵐峡の水面を渡ります。そして夜になると、蔵のカウンターに立ち、静かにお客さまを迎えます。

130年前の梁(はり)が守る静かな空間。揺れるキャンドルの火。そして、時を超えて響き合う香りとウイスキー。 舟でしか辿り着けない奥嵐山の夜。「景色が浮かんで欲しかった」と言って名付けられたカクテルが、誰かの夜に灯るとき、薫香barは、その瞬間の「特等席」へと変わるのです。

星のや京都

水辺の私邸で時を忘れる

平安貴族が別邸を構えた京都府・嵐山。渡月橋から舟に乗り、大堰川を遡ると現れる水辺の私邸。京都に息づく伝統技法を感じる客室、嵐峡の情景を映した滋味豊かな会席料理、四季折々の風光明媚な景観。自然と調和した環境の中に身をおきながら時を忘れ、非日常の滞在を楽しめます。