解体されるはずだった「ねぷた」が、青森屋に嫁入りするまで。

青森屋の「じゃわめぐ広場」には、圧倒的な存在を放つ山車があります。その名も、五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)「かぐや」。

高さ23メートル以上、重さ約19トンを誇る、五所川原立佞武多。「かぐや」は、最高傑作と呼ばれ市民に愛されながらも、祭りが終わると取り壊されることになっていました。なぜ、これほど巨大な街の伝統が宿泊施設へと受け継がれることになったのか。始まりは、解体直前の偶然の出会いでした。

この移設劇の裏には、ある一人のスタッフの長年の情熱がありました。

青森の祭りにのめり込んだスタッフ

青森屋のスタッフ、常住(つねずみ)さんは、埼玉県の出身です。星野リゾートに入社し、青森屋に配属されてから16年。その間、一度も「青森を離れたい」と思ったことはないといいます。

「青森に来て最初に思ったのは、うらやましいな、でした。四大祭りがある。しかも、みんな8月になったら参加しなきゃいけないと本気で思っている。こんな場所、他にない」

弘前ねぷたまつり、青森ねぶた祭、八戸三社大祭、五所川原立佞武多。県民にとってお祭りは観光コンテンツではなく、暮らしの一部です。

「じゃわめぐ」という言葉が青森にはあります。背中がざわざわする感覚——祭りが近づくと体の奥からわいてくる、抑えきれない衝動のことです。青森屋の広大な屋内広場「じゃわめぐ広場」の名も、ここから来ています。

県外出身者だからこそ、常住さんはすべてに飛び込みました。自ら祭りを盛り上げる役割として、四大祭りすべてに参加してきたのです。このように一つの枠にとらわれず、すべての祭りに深く関わる人は地元でも決して多くはありません。地元の人々は、そんな彼のことを親しみを込めて「もつけんど」と呼びます。津軽弁で「物事に熱中する人、お調子者」を意味する言葉です。常住さんが祭りで着用している五所川原市の法被は、本来なら地元の人以外が袖を通すことはできないもの。彼が地域の人々と築いてきた信頼関係の証でもあります。

解体5日前に訪れた、ねぷた製作者との会話

2024年の夏。常住さんはたまたま五所川原市を訪れていました。巨大な山車を常設展示する「立佞武多の館」の関係者に挨拶に行くと、「ちょうど立佞武多の制作者の忠汰さんがいるから」と案内されました。忠汰さんの元へ向かったとき、目に飛び込んできたのは、解体作業が進む「かぐや」の姿でした。

「かぐや」は、高さ23メートル、重さ20トン。運行には50〜60人が関わるこの巨大な山車は、2019年に制作され、3度の出陣を経て役目を終えようとしていました。立佞武多は数年に一度サイクルが回り、役目が終われば解体されるのが慣例です。まさに解体がゆっくりと進んでいたところでした。残っていたのは顔のパーツと竹の部分、そして月へ帰るかぐや姫が乗る牛車の部分だけでした。

「こんな立派なねぷたも、解体してしまうなんてもったいない」

当時常住さんはそう感じたといいます。

挨拶を終えようとした瞬間、忠汰さんが言いました。

「残っている部分を青森屋でもらってくれませんか?」

実は、忠汰さん自身も「かぐや」を壊したくなかったといいます。

常住さんは、迷いませんでした。

その場ですぐに総支配人、須道さんへ連絡を入れました。青森屋では、四大祭りをショーとしてゲストに披露していますが、五所川原立佞武多の山車だけ館内に実物がありませんでした。2019年、山車の曳き手として五所川原の夜に立ち会ったあの「かぐや」が、今、目の前にあるー

「お客様には、五所川原立佞武多だけ実物をご覧いただけていなかったことがずっと心の中にあって。その話をいただいた時にはチャンスだと思いました」

伝統の境界線を越える、立佞武多の「嫁入り」

連絡を受けた須道さんも、気持ちの上では常住さんと同じでした。ただ、巨大な「かぐや」をどこに置くか、そもそも搬入ができるのか、検討すべきことは多くありました。まずは制作者の思いを知るべく実際に現地へ足を運び、忠汰さんから制作背景を聞きました。

2019年は、元号が「平成」から「令和」へと切り替わった年です。「令和」の言葉の由来は万葉集—平安時代の書物に端を発します。その時代の物語、竹取物語のかぐや姫を題材に選んだこと。新しい時代の幕開けを、月へ帰る姫の一瞬に重ねたこと。その思いを聞いた須道さんの中で、何かがつながりました。

「施設のフロントからエレベーターで降りた瞬間、じゃわめぐ広場がバンと広がるので、日常の空間から、祭りの空間に世界が切り替わる。その感覚が、重なったんです」

かぐや姫が牛車に乗り現世から月へ旅立つように、お客様はエレベーターを降り日常から祭りの世界へと踏み込みます。「かぐや」はその扉としてここにあるべきだと確信しました。解体されるはずのかぐやは月に返らず、青森屋へ。関係者の間で、いつしか「かぐやの嫁入り」が共通言語になっていきました。

青森屋への迎え入れを決めた後は前例のない手続きが続きました。「かぐや」は五所川原市が所有するもの。五所川原市長への相談を経て、観光課と慎重に議論を進めました。立佞武多の歴史上、解体されずに残すという前例はこれまでありませんでした。市長からは快く承諾をいただいたものの、市民が「最高傑作」と呼んで愛してきたものを預かる重みは、関係者全員が感じていました。

搬入劇で見せた、執念と覚悟

2025年2月。搬入の段取りを担ったのは、入社28年目のベテラン、山形さんです。元々調理師として入社。その後は他施設への異動も経て、再び青森屋へ帰任。長年にわたり施設の苦楽を共にしてきたからこそ、「何かあれば山形さんが解決してくれる」と誰もが頼る縁の下の力持ちとなっています。

そんな山形さんは「かぐや」の搬入に際し、事前に搬入経路を確認、10tトラックと4tトラックを1台ずつ手配し、準備を整えました。問題なく進むはずでした。ところが。

「顔が、入らなかったんです」

青森屋の館内は広い。一方で搬入口は狭く、当日運び込む段階になって、「かぐや」の顔のパーツがどうしても入口を通らないことがわかりました。戻るわけにはいきません。その場で忠汰さん自身がパーツを切断し、館内で再修復するという対応が取られました。立佞武多の搬入のためにあそこまで細かく分解するのは、忠汰さんにとっても初めてのことでした。自らの手で切り、運び、また繋ぎ直す。重い作業の中に、それでも「残したい」という強い意志がありました。

「悲しい涙」が「うれし涙」へ変わったお披露目

無事に設置を終え、お披露目当日。五所川原市の観光課担当者と市長が青森屋を訪れ、お囃子の演奏が広場に響きました。10社を超える地元のメディアが集まり、じゃわめぐ広場が本物の祭りのような熱気に包まれました。

セレモニーの中で忠汰さんがコメントを述べる場面がありました。制作の思い、令和への願い、青森屋に託した気持ち—言葉を重ねるうちに、声を詰まらせるシーンもありました。「かぐや」の顔には、月に帰る時の悲しみを表現した涙が描かれていますが、忠汰さんは「悲しい涙が、うれし涙にかわりました」と語りました。その言葉を隣で聞いていた常住さんは、「私も泣きそうになりました」と少し間を置いて振り返ります。

無事にお披露目ができ、安堵したように笑う市長の姿を見て、常住さんは「結婚式が終わったお父さんみたいでした」と話します。

青森屋を入口に、本場の祭り文化を

解体5日前の状況から、たくさんの人の想いを乗せて青森屋へやってきた「かぐや」。現在、広場に立つその姿は、本場の祭りではあり得ないほどの至近距離で、宿泊客を圧倒しています。

「日本の地方には様々な祭りがあり、受け継がれてきた伝統や文化がそれぞれにある。青森の熱い祭り文化をひとりでも多くの人に見て、感じて、ファンになってもらいたい。青森屋がきっかけとなって、実際に現地に赴いてリアルを見てもらいたいと思っています。」と、常住さんは語ります。

青森屋

青森県・三沢市にある青森文化を体感する宿

「のれそれ(*青森の方言で目一杯の意味)青森 ~ひとものがたり~」をコンセプトに、青森の祭りや方言などの 文化を満喫できる温泉宿。約 22 万坪の敷地内には、池や古民家が点在する公園もあり、食事や多彩なアクティビティを楽しむことができます。